今日もおつかれさまです!

のんびりと、でも着実に生きたい

美容の5本柱

この前読んでいた雑誌(「美的」2020年1月号)で、気になる言葉を見つけました。

 

美容の5本柱は「食事・睡眠・排泄・運動・ストレスコントロール」なんだそうです。

この5本柱が崩れないようにすれば、内面から美しくなれるそうです。

 

コロナ禍の中で、(もちろん一概に言えないけど)家にいる時間が増えたことで内なる美を追求しよう、というコンセプトが出てきたのでしょうか。

 

この5本柱は当たり前のことばかりのようですが、確かにその通りだと思いました。

最近は「腸活」が流行り、排泄にも気を使う人が増えていますしね。

 

「排泄」について最近気づいたのですが、私の場合「太ってきたかも...」と思うときはたいてい便秘で、お腹に排泄物が溜まっているだけなんですね。

私の場合、普段は便秘になりませんが生理中はどうしても腸が動かなくなり、便通が滞ってしまいます。

 

そんなとき、お腹はぽっこり張っているし、体重は増えているしで「太ったな」と思ってしまうのですが、便通が良くなると元通りになることがほとんどです。

 

便秘だとお腹もすっきりしなくて食欲もいまいちなのですが、そこで太ったと思って食事を少なくしてしまうと、私の経験上では余計に便通が悪くなります。

やはり、食べないと腸も動いてくれないんですね~

 

しっかり食べて、動いて、出すということをすると、たくさん食べても意外と太らないことがわかってきました。

前は断食ダイエットとかしていたのですが、あまり私には合っていなかったですね。

年齢と共に(まだ若いのに...)食欲が落ちてきたので、むしろ積極的に食べて栄養を摂るべきかもしれません。

 

「内なる美」、追求していきたいですね~☆

 

身を低くして生きる

人に好かれようとしたり、自分の能力をアピールしたりして目立とうとして、結局疲れてしまうというのが私にはよくあることなのですが、自分の栄光を求めたがるのは人の常なのかもしれません。

 

それに対し、クリスチャンの理想的な生活とは自分の栄光ではなく神の栄光のために、神の手として働くことである、というのが聖書の中で言われています。

 

マザー・テレサのような生き方がその典型でしょうか。

 

今回の説教でこんな言葉がありました。(自分で訳したので正確かわかりませんが)「あなたが主イエスにきちんと献身しているなら、人間には計り知ることのできない高みに既に到達しているのです。人に気づかれるのは、神の力がいつもあなたを通して来ているということだけです。」

 

自分の栄光を求めて、人に理解してもらおうとしたり好かれようとしたりするのは、他人の承認がなければ自分が満たされないことの裏返しなのではないでしょうか。

神様を知り、その愛の中で生きているということ自体が大きな喜びであり、たとえ人が見ていなくても自分のしていることは神様が全部見ていてくださることを思ったとき、私はとても安心しました。もう他人に媚びなくても大丈夫だと思ったからです。

 

敬虔なクリスチャンは、歴史上の偉人も含めてとても謙虚です。その大きな働きのわりには十分な見返りを得ていないようにも見えますが、そういう人たちは神様の愛でこれ以上ないほどに満たされている人たちなのかもしれません。そしてその愛が、奉仕という形であふれ出ているのです。

 

Still Human!

身を低くして生きる

 

…whatever you do, do all to the glory of God.  1 CORINTHIANS 10:31

「…また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」(コリント人への第の手紙10章31節)

 

In the Scriptures, the great miracle of the incarnation slips into the ordinary life of a child; the great miracle of the transfiguration fades into the demon-possessed valley below; the glory of the resurrection descends into a breakfast on the seashore. This is not an anticlimax, but a great revelation of God.

キリスト者は日常生活のあらゆる場面で聖書のイエス・キリストの大きな奇跡の場面を連想しています。例えば「キリストの変容」の奇跡は、下の悪魔に憑かれた谷に消えていきます。復活の栄光は、海岸での朝食に降り注いでいます。くだらないと思われるかもしれませんが、これらは神の偉大な啓示です。

(※キリストの変容:聖書で描かれている、以下のような出来事。「イエス・キリストは受難(十字架にかけられること)の前にペテロ、ヤコブヨハネの 3弟子を連れて高い山に登った。すると見ている間にイエスの『顔は太陽のように輝き,その衣は光のように白くなった』。そしてモーセとエリヤの 2預言者が現れイエスと語った。また天上からは神の声が下った。」

 

We have a tendency to look for wonder in our experience, and we mistake heroic actions for real heroes. It’s one thing to go through a crisis grandly, yet quite another to go through every day glorifying God when there is no witness, no limelight, and no one paying even the remotest attention to us.

私たちは自分の経験の中に奇跡を探そうとする傾向があり、英雄的な行動を本物の英雄と間違えてしまいます。壮大な危機を乗り越えることと、誰も見ておらず、スポットライトを浴びることもなく、誰からも注意を払われていないときに毎日神を賛美することは全く別のことです。

 

If we are not looking for halos, we at least want something that will make people say, “What a wonderful man of prayer he is!” or, “What a great woman of devotion she is!” If you are properly devoted to the Lord Jesus, you have reached the lofty height where no one would ever notice you personally. All that is noticed is the power of God coming through you all the time.

栄光を求めるとまではいかなくても、少なくとも人々に「彼はなんて素晴らしい祈りの人だ!」または「彼女はなんて素晴らしく献身的な女性なのでしょう!」と言わせるような何かが欲しいのです。あなたが主イエスにきちんと献身しているなら、人間には計り知ることのできない高みに既に到達しているのです。人に気づかれるのは、神の力がいつもあなたを通して来ているということだけです。

 

We want to be able to say, “Oh, I have had a wonderful call from God!” But to do even the most humbling tasks to the glory of God takes the Almighty God Incarnate working in us. To be utterly unnoticeable requires God’s Spirit in us making us absolutely humanly His.

「ああ、神様から素晴らしい呼びかけがありました!」と言えるようになりたいです。しかし、神の栄光に対して最も謙虚な仕事をするためには、全能の神が私たちの中よで働いている必要があります。私たちの業がまったく目立たないようにするには、私たちの中で働く神の霊によって、人間でありながら完全に神のものにされなければなりません。

 

The true test of a saint’s life is not successfulness but faithfulness on the human level of life. We tend to set up success in Christian work as our purpose, but our purpose should be to display the glory of God in human life, to live a life “hidden with Christ in God” in our everyday human conditions (Colossians 3:3). Our human relationships are the very conditions in which the ideal life of God should be exhibited. 

聖人の人生の真の試練は、成功ではなく、人生のレベルでの忠実さです。私たちはクリスチャンとして奉仕することを目標とする傾向がありますが、本当の目的は生活の中で神の栄光を表し、日常的な人間の状態で「神のキリストに隠された」生活を送ることです(コロサイ人への手紙3章3節) 。特に人間関係においては、まさに神の子としての理想的な生活を示すべきです。

 

WISDOM FROM OSWALD CHAMBERS

The fiery furnaces are there by God’s direct permission. It is misleading to imagine that we are developed in spite of our circumstances; we are developed because of them. It is mastery in circumstances that is needed, not mastery over them.

(From My Utmost for His Highest Updated Edition)

オズワルド・チェンバーズの知恵

燃えさかる炉は神が直接許可したことによってそこにあります。私たちが困難な状況にもかかわらず成長していると考えるのは誤りです。私たちは困難ゆえに成長しているのです。必要なのは困難な状況の中で自らに対して勝利することであり、困難に対して勝利することではありません。

リファを買いました

先日、会社の福利厚生でリファカラットと高級フェイスパックのセットを破格の値段で購入することができました💖

 

普段からリファに似た形のコロコロを使って脚のむくみを取るマッサージをしていて、今回安く買えるチャンスがあったのでコロコロをグレードアップするべく購入しました。

 

リファにも色々なタイプがありますが、リファカラットという、スタンダードなタイプというか、大きめのやつです。

 

脚や頭皮のマッサージに使いたかったので、これくらいの大きさがあったほうがやりやすいと思います。

 

安いコロコロは皮膚が挟まると少し痛いので、顔回りのケアには使っていなかったのですが、これを機にリファで頭皮と顔回りのマッサージも始めました。

 

マッサージの方法は以下の動画を見ながらやっています。

顔をマッサージしすぎると皺になるというのは私も以前聞いたことがあったので、頭皮中心にマッサージすることにしました。

短時間でできるし、気持ちいいです。

 

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リファには真ん中のところにソーラーパネルがついていて、マイクロカレントという微弱電流が流れているらしいです。使っていて感じられることはないですが、ピリッと来る人もいるみたいです。

 

設定とか準備とかは全く不要なようで、箱を開けたらすぐ使えました。ソーラーパネルなので電源に接続する必要もありませんし、スイッチもありません。

シンプルすぎて、びっくりです。

 

また、余談ですがリファの説明書がずいぶん分厚いなーと思ったら同じ内容が日本語、英語、中国語、韓国語で書いてありました。いろんな国で人気なんですね~

 

やはり、コロコロの良さはシンプルでいつでも使いやすい所ですね。

頭皮も脚も手でマッサージできるのですが、ちょっと力がいるので疲れているときは億劫になります。

コロコロを使うと、頭皮を痛気持ちよく刺激したり、おしりの周りをグイグイ揉んだりすることが簡単にできるので、マッサージのハードルが下がる感じがします。

面倒くさいと思ってしまうと、ケアも続きませんからね。

 

フェイスパックはPlosion de Salonハーバルケアという商品で、これは炭酸ガスで肌をトーンアップ&引き締めるものらしく、8回分で定価12,000円(!)だそうです。

エステで買うものなのかな。

こちらも、使ってみて気が向いたら感想を書いてみたいと思います~

「神に服従する」とは?

今回は神への服従、そして奇跡についてです。

 

いきなり「神に服従しなさい」と言われても、洗脳されているみたいで不気味ですよね。

 

現代的な考え方では、何かに服従するというよりも自分で考えて納得した上で、自分の意志で何かする、というほうが意思決定のプロセスとしては一般的ではないでしょうか。

 

私たちは基本的に因果律の世界で生きていて、科学も発展しているし、ネットでたくさんの情報に触れることができます。

 

生活の中で問題が起これば「何でだろう?」と思って人に聞いたり、ネットで調べたりして解決しようとします。解決は無理でも、少なくとも理由が分かったほうが安心できます。

 

これは因果律の考え方で、何かが起こるとき、そこには原因があるという考えが前提になっています。全くの偶然で物事が起こるなら、理由を調べても意味がないからです。

 

しかし、実際にはこの世で起こる全てのことについて原因が分かるわけではないし、原因が無い(神のみぞ知る)ということもあります。

 

どうして私が、どうして今なのか、理不尽に思えることがあると思います。

そんなとき、理由を考えても悩みが深まるだけですね。

 

しかしそこで、辛い出来事も全て神様の計画の中に組み込まれていると考えてみるとき、神様に与えられた試練にもきっと何か意味があるはずだ、と少しポジティブになれます。

 

そして試練を乗り越えたとき、思いもよらない「奇跡」が起きるのではないでしょうか。



The Eternal Goal

永遠の目標

 

By Myself I have sworn, says the Lord, because you have done this thing…I will bless you…  GENESIS 22:16-17

「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し...」(創世記22章16-17節)

 

Abraham, at this point, has reached where he is in touch with the very nature of God. He now understands the reality of God.

このとき、アブラハムは神の本質そのものに触れていました。そしてその結果、彼は神の現実を理解するようになりました。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     My goal is God Himself…

At any cost, dear Lord, by any road.

“At any cost…by any road” means submitting to God’s way of bringing us to the goal.

「求めるのはただ神

たとえ代償を払っても、愛する主よ、どんな道でも」(讃美歌「求めるのはただ神」より)

この歌詞は、私たちを神の国へと導く神の道に委ねることを意味しています。

 

There is no possibility of questioning God when He speaks, if He speaks to His own nature in me. Prompt obedience is the only result. When Jesus says, “Come,” I simply come; when He says, “Let go,” I let go; when He says, “Trust God in this matter,” I trust. This work of obedience is the evidence that the nature of God is in me.

神が私の中でご自身について語られているのなら、質問の余地はありません。すぐに服従するのみです。イエス様が「来なさい」と言われれば、私はただ来ます。「手放しなさい」と言われれば、手放します。「このことについては、神に信頼しなさい」と言われれば、私は信頼します。この従順の働きは、神が私の中におられることの証拠です。

 

God’s revelation of Himself to me is influenced by my character, not by God’s character.

’Tis because I am ordinary,

Thy ways so often look ordinary to me.

私に対する神の啓示は、神ご自身ではなく私の人格に影響されます。

「なぜなら、私はごく普通の人間であり、あなたのやり方は往々にして私にはごく普通に見えます。」

 

It is through the discipline of obedience that I get to the place where Abraham was and I see who God is. God will never be real to me until I come face to face with Him in Jesus Christ. Then I will know and can boldly proclaim, “In all the world, my God, there is none but Thee, there is none but Thee.”

私がアブラハムがいた場所にたどり着いて神を知るのは、従順の規律によってです。私がイエス・キリストの中におられる神と向き合って初めて、神を実体のあるものとして感じることができます。そうすれば「私の神よ、全世界の中で(私が従うのは)あなた以外の何者もいません。あなた以外の何者も。」と大胆に宣言することができます。

 

The promises of God are of no value to us until, through obedience, we come to understand the nature of God. We may read some things in the Bible every day for a year and they may mean nothing to us. Then, because we have been obedient to God in some small detail, we suddenly see what God means and His nature is instantly opened up to us. 

神の約束は、従順を通して神の本質を理解しなければ私たちにとって価値がありません。私たちは毎日、一年間、聖書でいくらかのことを読むかもしれませんが、神に従う心がなければ何の意味もないかもしれません。少しでも神に従順になれば、突然神が何を意味しておられるのかがわかり、神の性質を知る道が即座に私たちに開かれます。

 

“All the promises of God in Him are Yes, and in Him Amen…” (2 Corinthians 1:20). 

 「なぜなら、神の約束はことごとく、彼において『しかり』となったからである。だから、わたしたちは、彼によって『アーメン』と唱えて、神に栄光を帰するのである。…」(コリント人への第二の手紙1章20節)

 

Our “Yes” must be born of obedience; when by obedience we ratify a promise of God by saying, “Amen,” or, “So be it.” That promise becomes ours. 

私たちの「はい」という肯定の言葉は従順から生まれなければなりません。従順によって、「アーメン」や「御心のままに」と言って神の約束を受け入れるとき、その約束は私たちのものになります。

 

WISDOM FROM OSWALD CHAMBERS

For the past three hundred years men have been pointing out how similar Jesus Christ’s teachings are to other good teachings. We have to remember that Christianity, if it is not a supernatural miracle, is a sham.

(From My Utmost for His Highest Updated Edition, from The Highest Good, 548 L)

 

オズワルド・チェンバーズの知恵

過去300年間、人々はイエス・キリストの教えが他の良い教えとどれほど似ているかを指摘してきました。しかしキリスト教は超自然的な奇跡を起こし得るし、もしそうでなければ偽物であることを覚えておかなければなりません。



おうち時間は寝香水でリラックス

最近、香水に興味があって、クリスマスプレゼントには香水をもらおうと思い、今お気に入りの香りを探し中です。

 

私が探しているのは「寝香水」です。

夜寝るときに耳の裏などにつけて、香りを楽しみながらリラックスして快眠できたら素敵だなーと。

アロマを焚くよりも、香水をシュッとするほうが早いし、道具もいらないですからね。もちろん、値段は張りますが。

 

お店に行くのも楽しそうですが、コロナも第三波と言われる中でなかなか行きづらかったり、また私の場合はおすすめされると断れないたちなので、ネットでじっくり探せたらいいなーと思っていました。

 

そこで、最近「セレス」という香水のオンラインショップを見つけました。

そこでは香水のサンプルを無料で取り寄せることができ、口コミも見ながらじっくり試せます。(送料が500円くらいかかります)

先日、実際にサンプルを注文してみました。

 

サンプルというのは「ムエット」と言って、名刺サイズの紙に香水をスプレーしたものをビニールの袋に入れて密封してあり、自宅に届いて開封した時に香りが広がるようになっていました。

紙には香水の名前と情報のQRコードが印刷してあり、よくできているなぁーと感心してしまいました!

香水の名前って、ややこしいですからね。これならごちゃごちゃになりません。

 

香水の香りは時間の経過で変わっていくので、お店でその時だけ嗅ぐより、ムエットでじっくり試すほうが正確かもしれません。あと、最初は微妙でも何回か嗅いでいるうちに「これ好きかも」って思ってくることもあるので、気兼ねなくサンプルを家で何度でも嗅げるのは嬉しいです。

 

サンプルは一度に5個まで取り寄せられて、15回プッシュとか、少量の取り寄せもできるみたいです。持ち運びにもいいですね。

 

今回取り寄せた香水は以下5つです。

寝香水で探しているので、観点は自分が好きかどうか、です。

ちょっと個性的な香りも含まれていますが、万人受けするかとかは全然考えずに選びました。

 

Acqua Di Parma - Mirto Di Panarea (アクア ディ パルマ − ミルト ディ パナレア) 

イタリアのパナレア島は知る人ぞ知る高級リゾートの隠れ名所。さわやかなシトラスのトップノートにアロマ、ジャスミンとバラ、ブラックカラントの葉が合わさり、あなたを楽園へ連れて行きます。

Acqua di Parma - Colonia (アクア ディ パルマ - コロニア) 

シチリアの太陽をたっぷりと浴びたレモン、ベルガモット、そしてスイートオレンジ。やがて、ラベンダー、バーベナ、ダマスクローズのフローラルエッセンスと混じり合い、その黄金のレシピはベースの貴重なベチバー、サンダルウッド、パチュリなどの温かみのあるウッディノートによって完成されます。コロニアはアクアディパルマの原点であり、往年のスターも愛してやまなかったタイムレスな魅力を持った極上の逸品です。  

Diptyque - Tam Dao (ディプティック - タムダオ) 

トンキンの山々にあるつる植物、木々を運ぶ象たち。熱帯雨林ジャングル特有のむせかえるような湿気と熱気の中で香り立つ様子をオマージュしました。ローズウッド、サイプレス、アンバーグリス、ゴア サンダルウッドの、フローラルウッディムスクの香り。  

 

Hermes - Un Jardin Sur Le Nil (エルメス - ナイルの庭) 

清々しいシトラスグリーンマンゴー、ロータス、シカモアウッドの香りが織り成す優雅に流れる美しいナイル川の辺りの散歩を思わせる「水と砂の匂い」。

 

Aesop - Hwyl (イソップ - ヒュイル)

濃密な霧の合間から姿を現した静寂と新緑に満ちた日本古代の森林。自然の中に存在する渇望が生命体の間を行き来する概念を表現した香りです。ずっしり重力を感じるスモーキーノートから始まり、サイプレス、フランキンセンス、ベチバーなど新緑のテクスチャーへと移り変わります。

 

香水の説明書きって、詩みたいでときめきますねー。

でも実際嗅いでみると結構イメージと違うものもありました。

人によって感じ方が違うんですね。

 

ディプティックのタムダオはすごく期待していたのですが、思ったより甘い香りでちょっと違うかなーと思いました。

私は甘い香りが苦手なので、ウッディでリラックスできそうな香りが欲しかったのです。

 

この5つの中ではイソップのヒュイルが一番良かったです。

これは杉の香りが強く、私はすごく好きなのですが、なかなか個性的だと思います。

自分だけで気兼ねなく香水を楽しむというのもは、ステイホームが長引く今でこそできる贅沢なのかもしれませんね。

 

爆汗茶の作り方

最近は寒さも日に日に本格的になり、冬の訪れを感じますね。

 

冬と言えばお風呂!なのですが、私は時間に余裕があるときに半身浴をしています。

私は冷え性なので、お風呂で温まるのは本当に大事です。

 

代謝が悪いのか、お風呂に入ってもなかなか汗が出なくて、長風呂しているうちにお風呂が冷めてきてしまいます(;'∀')(狭いアパートのユニットバスなので追い炊き機能なんてありません!笑)

 

なので、効率よく体の芯まで温めて素早く汗を出したいんです。

色々と試行錯誤しましたが、まず上半身が冷えないようにタオルをかけること(フェイスタオルを肩から羽織る感じでかけて、前のところを輪ゴムで止めるといい感じ)、バスソルトを使うこと、そして何といっても爆汗茶です!

 

このお茶はオリジナルレシピで作っているのですが、簡単で発汗効果も高いのでオススメです!

 

ティーポットにルイボスティーティーバッグとしょうがの薄切り、シナモン、カルダモン、黒コショウを適量入れてお湯を注ぐだけ。

 

しょうがは生のものを買ってきてスライスして瓶にストックし、すぐ使えるようにしてあります。

カルダモンはインドのチャイによく入っているスパイスで、清涼感がある香りです。なくても発汗効果は落ちないと思いますが、カルダモンが入っていると風味が格段に良くなるので私は必ず入れています。パウダータイプを使います。

 

半身浴はぬるめのお湯と言いますが、私の場合それでは温まらないのでちょっと熱めの42℃にしています。熱めのお湯に入り、アツアツの爆汗茶を飲めばさすがの私でも汗が吹き出します!笑

こうやって芯まで身体が温まると、お風呂から出た後もしばらく身体がポカポカしています。

 

冷え性もだんだんと改善してきているように思います。

朝、ご飯の前に散歩に行くのですが、散歩していると外が寒いのに身体が温まってくるんです。前だったら考えられなかったことですね~

 

体質なんて変わらないと思っていたけれど、変化が感じられて嬉しかったです!

爆汗茶、もしよかったら作ってみてくださいね~☆

 

すぐそこにある「気づき」

私は最近朝に散歩をするのですが、いつも「ここまで歩こう」と目印にしている一本の木があって、それが季節の移ろいに応じて刻々と変化する様子を見ていました。春には葉が青々とし、夏にはピンク色の花が咲き、秋には紅葉し、冬が近づいている今は葉が落ちてきています。今年はコロナ禍で色々な活動や計画がストップしてしまい、私は暇を持て余し、時が止まったように感じられていたのですが、その木を見て季節は変わらず巡り、今年も冬が来たのだということを実感しました。

 

そんなに大きな木ではなく、名前も知らないし、そこまで立派でも美しくもない木なので目印にしていなかったらその木の変化に気づくこともなかったでしょう。

自然は神様がお創りになったもの(とクリスチャンは信じている)です。神様が自然を通して私に気づきを与えてくださったのだと思います。

 

人生は単なる偶然の連続という人もいるかもしれませんが、神様が全部決めていると考えてみると、そこに新しい感動や発見が生まれたり、辛い状況も耐えられたりするのではないでしょうか。

 

生きていれば色々なことを経験したり、見聞きしたりしますが、そこで実際に心が動いて気づきを得られることもあれば、余裕が無くて何も気づけなかったり、頑なな心でスルーしてしまうこともあります。

 

やわらかい心でたくさんのことに気づき、神様に感謝できるようになるためにはどうすれば良いでしょうか。

 

今回のオズワルド・チェンバーズによる説教の中では、必要なのは「神に忠実であること」だと言っています。



Discovering Divine Design

神の創造の業を発見する

 

As for me, being on the way, the Lord led me…  GENESIS 24:27

「主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしたちの旅路を導き...」(創世記24章27節)

 

We should be so one with God that we don’t need to ask continually for guidance. Sanctification means that we are made the children of God. A child’s life is normally obedient, until he chooses disobedience. But as soon as he chooses to disobey, an inherent inner conflict is produced.  

私たちは神と一体になることで、誰かの導きがなくても進めるようにならなければなりません。聖化とは、私たちが神の子とされるという意味です。自分で不従順を選択しない限り、神の子である私たちの魂は神に従順です。しかし、いったん不従順を選択すれば私たちの心の内面で葛藤が生じます。

 

On the spiritual level, inner conflict is the warning of the Spirit of God. When He warns us in this way, we must stop at once and be renewed in the spirit of our mind to discern God’s will (see Romans 12:2).  

霊的なレベルでは、内なる葛藤は聖霊による警告です。神がこのように警告するとき、私たちはすぐに立ち止まり、神の御心をわきまえることができるよう、精神的な意味で新しくされなければなりません(ローマの信徒への手紙12章2節を参照)。

 

If we are born again by the Spirit of God, our devotion to Him is hindered, or even stopped, by continually asking Him to guide us here and there. “…the Lord led me…” and on looking back we see the presence of an amazing design. If we are born of God we will see His guiding hand and give Him the credit. 

神の霊によって新たに生まれ(=洗礼を受けてキリスト教信者となること)たとしても、神に導いてもらうことばかりを願い続ければ、私たちの主体的な神への献身は妨げられ、止められさえします。「…主はわたしたちの旅路を導き…」(創世記24章27節)―そのときにはわからなくても、後になって振り返ってみると神の素晴らしい御業があったことわかります。私たちが神のもとで新たに生まれるなら、神の導きの手を見て、神を信用するでしょう。

 

We can all see God in exceptional things, but it requires the growth of spiritual discipline to see God in every detail. Never believe that the so-called random events of life are anything less than God’s appointed order. Be ready to discover His divine designs anywhere and everywhere.

 驚くべきことが起こった時、そこに神を見ることは容易ですが、日常生活の細部の中に神を見出すには精神的な訓練と成長が必要です。いわゆるランダムな人生の些細な出来事も、神が定められた秩序に他なりません。いつでもどこにでも、神の創造の業はあふれています。それを発見できるよう、よく注意していてください。

 

Beware of being obsessed with consistency to your own convictions instead of being devoted to God. If you are a saint and say, “I will never do this or that,” in all probability this will be exactly what God will require of you. 

 自分の信念に一貫性を持たせようとするあまり、神に献身するのを忘れないようにしましょう。あなたが聖人ぶって「私はこれこれのことを決してしない」と言うとしても、それはあなたの信念ではなく、神があなたにそう命じるのです。

 

There was never a more inconsistent being on this earth than our Lord, but He was never inconsistent with His Father. The important consistency in a saint is not to a principle but to the divine life. It is the divine life that continually makes more and more discoveries about the divine mind. It is easier to be an excessive fanatic than it is to be consistently faithful, because God causes an amazing humbling of our religious conceit when we are faithful to Him.

私たちの主はこの地球上で最も矛盾した存在ですが、主イエス・キリストは父である神とは決して矛盾していませんでした。聖人として重要な一貫性は節操を守ることではなく、神に仕える生活を送ることです。神の御心について多くの発見をし続けられるのは神的な生活があってこそです。神に忠実であれば、神は人を驚くほど謙虚にし、宗教的なうぬぼれをなくしてくださるのですが、実際には一貫して神に忠実である事は難しく、たやすく単なる過度の狂信者に成り下がってしまいます。

 

WISDOM FROM OSWALD CHAMBERS

Christianity is not consistency to conscience or to convictions; Christianity is being true to Jesus Christ.

From My Utmost for His Highest Updated Edition(from Biblical Ethics, 111 L)

オズワルド・チェンバーズの知恵

キリスト教を信じることは良心や信念と一貫性を持つことではありません。イエス・キリストに忠実であることです。

「My Utmost for His Highest Updated Edition」より(from Biblical Ethics, 111 L)