今日もおつかれさまです!

のんびりと、でも着実に生きたい

The Consecration of Spiritual Power (2019/11/27)

 

…by whom the world has been crucified to me, and I to the world. GALATIANS 6:14

 

If I dwell on the Cross of Christ, I do not simply become inwardly devout and solely interested in my own holiness— I become strongly focused on Jesus Christ’s interests. Our Lord was not a recluse nor a fanatical holy man practicing self-denial. He did not physically cut Himself off from society, but He was inwardly disconnected all the time. He was not aloof, but He lived in another world. In fact, He was so much in the common everyday world that the religious people of His day accused Him of being a glutton and a drunkard. Yet our Lord never allowed anything to interfere with His consecration of spiritual power.

 

It is not genuine consecration to think that we can refuse to be used of God now in order to store up our spiritual power for later use. That is a hopeless mistake. The Spirit of God has set a great many people free from their sin, yet they are experiencing no fullness in their lives— no true sense of freedom. The kind of religious life we see around the world today is entirely different from the vigorous holiness of the life of Jesus Christ. “I do not pray that You should take them out of the world, but that You should keep them from the evil one” (John 17:15). We are to be in the world but not of it— to be separated internally, not externally (see John 17:16).

 

We must never allow anything to interfere with the consecration of our spiritual power. Consecration (being dedicated to God’s service) is our part; sanctification (being set apart from sin and being made holy) is God’s part. We must make a deliberate determination to be interested only in what God is interested. The way to make that determination, when faced with a perplexing problem, is to ask yourself, “Is this the kind of thing in which Jesus Christ is interested, or is it something in which the spirit that is diametrically opposed to Jesus is interested?”

From My Utmost for His Highest Updated EditionBible in One Year: Ezekiel 30-32; 1 Peter 4

 

WISDOM FROM OSWALD CHAMBERS

“When the Son of man cometh, shall He find faith on the earth?” We all have faith in good principles, in good management, in good common sense, but who amongst us has faith in Jesus Christ? Physical courage is grand, moral courage is grander, but the man who trusts Jesus Christ in the face of the terrific problems of life is worth a whole crowd of heroes.from The Highest Good, 544 R​

 

<Words and Phrases>

crucify: 十字架につける

devout: 信心深い

recluse: 世捨て人

fanatical: 熱狂的な

self-denial: 自己否定、禁欲

aloof: (世俗から)離れて、遠ざかって

glutton: 大食漢

drunkard: 大酒飲み

consecration: 奉献、献身、神聖化、聖別

store up: 溜め込む、貯蓄する

perplex: 困らせる、混乱させる、複雑にする

diametrically opposed: 全く反対で

cometh: (古)来る

amongst: 〜の中で、間で

 

⭐︎ポイント⭐︎

self-denialで自己否定と禁欲という二つの意味があるのが面白いです。あれをしたい、これをしたいという自分を否定する、つまり禁欲ということでしょうか。

また、diameterは「直径」という意味なので、ちょうど円の一端ともう一端のように真逆、というイメージで捉えるとわかりやすいですね。

 

<日本語訳>

 

霊的な力の奉献

 

この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。(ガラテヤの信徒への手紙 第6章14節)

 

私がキリストの十字架を心に抱いて生きるならば、単に内向的な信仰を持ったり、自分自身の神聖さにのみ興味を抱くようになるのではなく、イエス・キリストの持っていた関心に強く集中するようになります。主イエスは世捨て人ではなく、また熱狂的に禁欲を実践している聖人でもありませんでした。イエスは物理的に社会から切り離されたわけではありませんでしたが、その内面は常に俗世間とは切り離されていました。彼は俗世間において孤立していたわけではなく、別の世界に住んでいたのです。イエスがあまりにも俗世に溶け込んでいたために、当時の聖職者たちはイエスを大食漢・大酒飲みであると言って糾弾しました。

 

後の使用のために霊的な力を蓄えようとして、今は神によって用いられることを拒否することができると考えているようでは、真の意味で神に身を捧げていることにはなりません。それは致命的な間違いです。神の霊は、多くの人々を罪から解放しました。しかし、彼らは自分の人生に満足も真の自由も経験していません。今日私たちが見ている宗教的生活は、イエス・キリストの人生の厳格な神聖さとは全く異なります。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。」(ヨハネ17:15)。私たちは世のただ中にいるべきであり、外面ではなく内面的に聖別されるべきなのです。

 

霊的な力によって聖別されようとするとき、何ものにも邪魔をされてはいけません。奉献(神に身を捧げて奉仕すること)は私たちの役割であり、聖化(罪から離れて聖なるものとされること)は神の役割です。私たちは神様が関心を持っていることにのみ関心を持つという決断をしなければなりません。困難な問題に直面したときにそのような決定を下す方法は、「これはイエス・キリストが興味を持っておられる事柄か、それともその真逆のものか」と自問することです。

一年間の聖書:エゼキエル書30-32; 1ペテロ4

 

オスワルドチャンバーズの知恵

「人の子が来るとき、彼は地上で信仰を見いだすでしょうか?」私たちは皆、良い原則、良い管理、良い常識を持っていますが、イエス・キリストを信じている人はいるでしょうか?肉体的な勇気は大きく、倫理的な勇気はもっと大きいですが、人生の恐ろしい問題に直面してイエス・キリストを信頼する人は、英雄たちが集まった群れ全体ほどの価値があります。

The Highest Good、544 R


<感想>

 

今回は「聖別」という少し難しい言葉が出てきました。辞書で調べると、意味は

聖別:キリスト教で、神聖な用にあてるため物または人を一般的・世俗的使用から引き離して、区別すること。聖化。(大辞泉より)

 だそうです。

 

礼拝(聖餐式)のときにイエス様の体として食べるパンも、ただのパンではなく聖なるパン、つまり聖別されたパン、ということになります。

 

ちなみに私はまだ信者ではないので聖餐にはあずかれないのですが、礼拝が終わると「ただのパン」になるので私も食べることができます。(とても美味しいです)

 

現代社会ではとかく自分の頭で考えて動くことが求められますが、そうするとしばしば自分の利益を求めようとしたり、自分の名誉を欲しがったりといった、欲望を叶えるための行動になってしまうことがあると思います。

 

「世俗を離れる」というのは、何も出家するとかお金儲けをやめるとか、そういう極端なことではなく、俗社会の中にありながら、欲望の塊である自分という存在を一旦離れた視点で見つめてみるということではないでしょうか。

 

いま自分がしていること、向かっている方向は神様の御心にかなうものだろうか。そうやって謙虚に自分を見直すことができる人間でありたいです。

 

神様に身を捧げるということは、裏を返せば他の何ものにも身を捧げないということ。自分の名誉を求めず、金の亡者にならず、他人に依存せず、権力に屈しない。クリスチャンという生き方はなんて強いのだろうと、いつも思わされます。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます(^^)

今日も良い一日をお過ごし下さいね🌼