今日もおつかれさまです!

のんびりと、でも着実に生きたい

自由は神様がくれるもの

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(ヨハネによる福音書8章32節)

 

今回のテーマは「自由」です。自由ってなんだろう...

自由に生きることを望んでいるし、それを目指しているつもりだけれど、私は今本当に自由なんだろうか。

 

日本は一応民主主義の社会で、言論の自由もある程度あります。

私は誰かの奴隷ではないし、自分のしたいことは自分で決める。

食べるものも着るものも、寝る時間だって好きなようにしていい。

 

でも、私が「自由に自分の意志でしている」と思っていることも、実は潜在的には誰かの言ったこととか、社会の雰囲気みたいなものに規定されている、ということはないでしょうか。

 

何物にもとらわれない空っぽの心を持つのは難しく、人間の心は普通、常に何物かに縛られざるを得ません。

 

「もう疲れてしまった」と感じるときはきっと、心が何かに縛られていて振り回されているのではないでしょうか。

 

誰かにコントロールされている、というよりは自分で自分の心を縛ってしまっていて、その裏には往々にして不安や恐怖、他人に気に入られたいという欲望などがあります。だから、何かから自由になるというよりも、自分自身から自由になると言ったほうが正確かもしれませんね。

 

私はキリスト教信者で神様を信じていますが、神様が心の中心にいてくださることで、周りの色々な事にとらわれたり、振り回されることがなくなって自由になったと感じました。

 

世の中は誘惑だらけです。私の心は弱く、何かにすがらないと生きていけなくてふらふらしてしまいます。お金とか、人間関係とか、何にでも依存しがちになります。神様はそういった一切のものから、私を自由にしてくださるのだと思いました。もちろん、お金は今でも大好きですけどね。笑

 

以下、オズワルド・チェンバーズによる説教です。



Winning into Freedom

勝利して自由になる

 

If the Son makes you free, you shall be free indeed.  JOHN 8:36

だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。(ヨハネによる福音書8章36節)

If there is even a trace of individual self-satisfaction left in us, it always says, “I can’t surrender,” or “I can’t be free.” But the spiritual part of our being never says “I can’t”; it simply soaks up everything around it. Our spirit hungers for more and more. It is the way we are built. We are designed with a great capacity for God, but sin, our own individuality, and wrong thinking keep us from getting to Him. 

 自己満足する心がほんの少しでも残っていると、そのような心はいつも「降伏するわけにはいかない」「私は自由になれない」などと言います。しかし、私たちの存在の中にある精神的な部分は決して「できない」と言いません。私たちの精神は周囲のものを吸収しつくし、なおも求め続けます。私たちはそのように創られているのです。人間は神を受け入れることができるように素晴らしい能力を持って生まれてきますが、同時に罪、自己主張、そして間違った考えが神への導きを妨げています。

 

God delivers us from sin— we have to deliver ourselves from our individuality. This means offering our natural life to God and sacrificing it to Him, so He may transform it into spiritual life through our obedience.

 神は私たちを罪から救い出してくださいます—私たちは自分自身を自己主張から救い出さなければなりません。元々の魂を神に捧げ、犠牲にするということです。そうすれば、神は私たちの従順を通してそれを霊的な生活に変えてくださいます。

 

God pays no attention to our natural individuality in the development of our spiritual life. His plan runs right through our natural life. We must see to it that we aid and assist God, and not stand against Him by saying, “I can’t do that.” God will not discipline us; we must discipline ourselves. 

 神が私たちを霊的に成長させるとき、元々の個性に注意を払うことはしません。神の御計画は私たちの魂を貫きます。私たちは神を助けるのであって、「私にはできない」と言って反発すべきではないことに注意しなければなりません。神様に任せるのではなく、自分で自分を訓練しなければならないのです。

 

God will not bring our “arguments…and every thought into captivity to the obedience of Christ” (2 Corinthians 10:5)— we have to do it. Don’t say, “Oh, Lord, I suffer from wandering thoughts.” Don’t suffer from wandering thoughts. Stop listening to the tyranny of your individual natural life and win freedom into the spiritual life.

 神は「神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑を虜にしてキリストに従わせ」(コリントの信徒への手紙 二 10章5節)るという状態を作ってはくださいません。私たち自身がそれをしなければならないのです。「ああ主よ、私はさまよう自分の考えに苦しんでいます」と言わないでください。さまよう考えに悩まされるのはもう終わりです。あなたの魂の声に圧倒されることなく、それに打ち勝って、精神の自由を勝ち取ってください。

“If the Son makes you free….” Do not substitute Savior for Son in this passage. The Savior has set us free from sin, but this is the freedom that comes from being set free from myself by the Son. It is what Paul meant in Galatians 2:20 when he said, “I have been crucified with Christ….” 

 もし子があなたたちを自由にすれば…」この箇所で言う「子」とは神としてのイエス・キリストではなく、人としてこの世に遣わされたイエス様を指します。確かにイエス・キリストは私たちを罪から解放しましたが、これは人間として遣わされた御子イエスによって私が私自身から解放された、という意味での自由です。弟子のパウロがガラテヤ人への手紙2章20節で「私はキリストと共に十字架につけられました」と言ったのは、まさにそのような

意味です。

 

His individuality had been broken and his spirit had been united with his Lord; not just merged into Him, but made one with Him. “…you shall be free indeed”— free to the very core of your being; free from the inside to the outside. We tend to rely on our own energy, instead of being energized by the power that comes from identification with Jesus. 

 彼の一人の人間としての個性は壊れ、彼の精神は主と一致していました。神に溶け込むだけでなく、一つになりました。 「…あなたは真に自由になるでしょう」—あなたの存在の核心まで自由になるのです。内側も外側も。しかし私たちは、神と一体となることで与えられる力ではなく、私たち自身の力に頼ろうとしてしまうものです。

 

WISDOM FROM OSWALD CHAMBERS

We begin our Christian life by believing what we are told to believe, then we have to go on to so assimilate our beliefs that they work out in a way that redounds to the glory of God. The danger is in multiplying the acceptation of beliefs we do not make our own.

From My Utmost for His Highest Updated Edition(from Conformed to His Image, 381 L)

 オズワルド・チェンバーズの知恵

キリスト教信者は、まずキリスト教の教えを信じることから信仰生活を始めます。そしてやがて教えを自分で吸収し、神の栄光を顕すはたらきに変えなければなりません。自らのものでない信念(=人が言っていること)ばかり受け入れるのは、危険なことです。