今日もおつかれさまです!

のんびりと、でも着実に生きたい

すぐそこにある「気づき」

私は最近朝に散歩をするのですが、いつも「ここまで歩こう」と目印にしている一本の木があって、それが季節の移ろいに応じて刻々と変化する様子を見ていました。春には葉が青々とし、夏にはピンク色の花が咲き、秋には紅葉し、冬が近づいている今は葉が落ちてきています。今年はコロナ禍で色々な活動や計画がストップしてしまい、私は暇を持て余し、時が止まったように感じられていたのですが、その木を見て季節は変わらず巡り、今年も冬が来たのだということを実感しました。

 

そんなに大きな木ではなく、名前も知らないし、そこまで立派でも美しくもない木なので目印にしていなかったらその木の変化に気づくこともなかったでしょう。

自然は神様がお創りになったもの(とクリスチャンは信じている)です。神様が自然を通して私に気づきを与えてくださったのだと思います。

 

人生は単なる偶然の連続という人もいるかもしれませんが、神様が全部決めていると考えてみると、そこに新しい感動や発見が生まれたり、辛い状況も耐えられたりするのではないでしょうか。

 

生きていれば色々なことを経験したり、見聞きしたりしますが、そこで実際に心が動いて気づきを得られることもあれば、余裕が無くて何も気づけなかったり、頑なな心でスルーしてしまうこともあります。

 

やわらかい心でたくさんのことに気づき、神様に感謝できるようになるためにはどうすれば良いでしょうか。

 

今回のオズワルド・チェンバーズによる説教の中では、必要なのは「神に忠実であること」だと言っています。



Discovering Divine Design

神の創造の業を発見する

 

As for me, being on the way, the Lord led me…  GENESIS 24:27

「主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしたちの旅路を導き...」(創世記24章27節)

 

We should be so one with God that we don’t need to ask continually for guidance. Sanctification means that we are made the children of God. A child’s life is normally obedient, until he chooses disobedience. But as soon as he chooses to disobey, an inherent inner conflict is produced.  

私たちは神と一体になることで、誰かの導きがなくても進めるようにならなければなりません。聖化とは、私たちが神の子とされるという意味です。自分で不従順を選択しない限り、神の子である私たちの魂は神に従順です。しかし、いったん不従順を選択すれば私たちの心の内面で葛藤が生じます。

 

On the spiritual level, inner conflict is the warning of the Spirit of God. When He warns us in this way, we must stop at once and be renewed in the spirit of our mind to discern God’s will (see Romans 12:2).  

霊的なレベルでは、内なる葛藤は聖霊による警告です。神がこのように警告するとき、私たちはすぐに立ち止まり、神の御心をわきまえることができるよう、精神的な意味で新しくされなければなりません(ローマの信徒への手紙12章2節を参照)。

 

If we are born again by the Spirit of God, our devotion to Him is hindered, or even stopped, by continually asking Him to guide us here and there. “…the Lord led me…” and on looking back we see the presence of an amazing design. If we are born of God we will see His guiding hand and give Him the credit. 

神の霊によって新たに生まれ(=洗礼を受けてキリスト教信者となること)たとしても、神に導いてもらうことばかりを願い続ければ、私たちの主体的な神への献身は妨げられ、止められさえします。「…主はわたしたちの旅路を導き…」(創世記24章27節)―そのときにはわからなくても、後になって振り返ってみると神の素晴らしい御業があったことわかります。私たちが神のもとで新たに生まれるなら、神の導きの手を見て、神を信用するでしょう。

 

We can all see God in exceptional things, but it requires the growth of spiritual discipline to see God in every detail. Never believe that the so-called random events of life are anything less than God’s appointed order. Be ready to discover His divine designs anywhere and everywhere.

 驚くべきことが起こった時、そこに神を見ることは容易ですが、日常生活の細部の中に神を見出すには精神的な訓練と成長が必要です。いわゆるランダムな人生の些細な出来事も、神が定められた秩序に他なりません。いつでもどこにでも、神の創造の業はあふれています。それを発見できるよう、よく注意していてください。

 

Beware of being obsessed with consistency to your own convictions instead of being devoted to God. If you are a saint and say, “I will never do this or that,” in all probability this will be exactly what God will require of you. 

 自分の信念に一貫性を持たせようとするあまり、神に献身するのを忘れないようにしましょう。あなたが聖人ぶって「私はこれこれのことを決してしない」と言うとしても、それはあなたの信念ではなく、神があなたにそう命じるのです。

 

There was never a more inconsistent being on this earth than our Lord, but He was never inconsistent with His Father. The important consistency in a saint is not to a principle but to the divine life. It is the divine life that continually makes more and more discoveries about the divine mind. It is easier to be an excessive fanatic than it is to be consistently faithful, because God causes an amazing humbling of our religious conceit when we are faithful to Him.

私たちの主はこの地球上で最も矛盾した存在ですが、主イエス・キリストは父である神とは決して矛盾していませんでした。聖人として重要な一貫性は節操を守ることではなく、神に仕える生活を送ることです。神の御心について多くの発見をし続けられるのは神的な生活があってこそです。神に忠実であれば、神は人を驚くほど謙虚にし、宗教的なうぬぼれをなくしてくださるのですが、実際には一貫して神に忠実である事は難しく、たやすく単なる過度の狂信者に成り下がってしまいます。

 

WISDOM FROM OSWALD CHAMBERS

Christianity is not consistency to conscience or to convictions; Christianity is being true to Jesus Christ.

From My Utmost for His Highest Updated Edition(from Biblical Ethics, 111 L)

オズワルド・チェンバーズの知恵

キリスト教を信じることは良心や信念と一貫性を持つことではありません。イエス・キリストに忠実であることです。

「My Utmost for His Highest Updated Edition」より(from Biblical Ethics, 111 L)