今日もおつかれさまです!

のんびりと、でも着実に生きたい

身を低くして生きる

人に好かれようとしたり、自分の能力をアピールしたりして目立とうとして、結局疲れてしまうというのが私にはよくあることなのですが、自分の栄光を求めたがるのは人の常なのかもしれません。

 

それに対し、クリスチャンの理想的な生活とは自分の栄光ではなく神の栄光のために、神の手として働くことである、というのが聖書の中で言われています。

 

マザー・テレサのような生き方がその典型でしょうか。

 

今回の説教でこんな言葉がありました。(自分で訳したので正確かわかりませんが)「あなたが主イエスにきちんと献身しているなら、人間には計り知ることのできない高みに既に到達しているのです。人に気づかれるのは、神の力がいつもあなたを通して来ているということだけです。」

 

自分の栄光を求めて、人に理解してもらおうとしたり好かれようとしたりするのは、他人の承認がなければ自分が満たされないことの裏返しなのではないでしょうか。

神様を知り、その愛の中で生きているということ自体が大きな喜びであり、たとえ人が見ていなくても自分のしていることは神様が全部見ていてくださることを思ったとき、私はとても安心しました。もう他人に媚びなくても大丈夫だと思ったからです。

 

敬虔なクリスチャンは、歴史上の偉人も含めてとても謙虚です。その大きな働きのわりには十分な見返りを得ていないようにも見えますが、そういう人たちは神様の愛でこれ以上ないほどに満たされている人たちなのかもしれません。そしてその愛が、奉仕という形であふれ出ているのです。

 

Still Human!

身を低くして生きる

 

…whatever you do, do all to the glory of God.  1 CORINTHIANS 10:31

「…また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」(コリント人への第の手紙10章31節)

 

In the Scriptures, the great miracle of the incarnation slips into the ordinary life of a child; the great miracle of the transfiguration fades into the demon-possessed valley below; the glory of the resurrection descends into a breakfast on the seashore. This is not an anticlimax, but a great revelation of God.

キリスト者は日常生活のあらゆる場面で聖書のイエス・キリストの大きな奇跡の場面を連想しています。例えば「キリストの変容」の奇跡は、下の悪魔に憑かれた谷に消えていきます。復活の栄光は、海岸での朝食に降り注いでいます。くだらないと思われるかもしれませんが、これらは神の偉大な啓示です。

(※キリストの変容:聖書で描かれている、以下のような出来事。「イエス・キリストは受難(十字架にかけられること)の前にペテロ、ヤコブヨハネの 3弟子を連れて高い山に登った。すると見ている間にイエスの『顔は太陽のように輝き,その衣は光のように白くなった』。そしてモーセとエリヤの 2預言者が現れイエスと語った。また天上からは神の声が下った。」

 

We have a tendency to look for wonder in our experience, and we mistake heroic actions for real heroes. It’s one thing to go through a crisis grandly, yet quite another to go through every day glorifying God when there is no witness, no limelight, and no one paying even the remotest attention to us.

私たちは自分の経験の中に奇跡を探そうとする傾向があり、英雄的な行動を本物の英雄と間違えてしまいます。壮大な危機を乗り越えることと、誰も見ておらず、スポットライトを浴びることもなく、誰からも注意を払われていないときに毎日神を賛美することは全く別のことです。

 

If we are not looking for halos, we at least want something that will make people say, “What a wonderful man of prayer he is!” or, “What a great woman of devotion she is!” If you are properly devoted to the Lord Jesus, you have reached the lofty height where no one would ever notice you personally. All that is noticed is the power of God coming through you all the time.

栄光を求めるとまではいかなくても、少なくとも人々に「彼はなんて素晴らしい祈りの人だ!」または「彼女はなんて素晴らしく献身的な女性なのでしょう!」と言わせるような何かが欲しいのです。あなたが主イエスにきちんと献身しているなら、人間には計り知ることのできない高みに既に到達しているのです。人に気づかれるのは、神の力がいつもあなたを通して来ているということだけです。

 

We want to be able to say, “Oh, I have had a wonderful call from God!” But to do even the most humbling tasks to the glory of God takes the Almighty God Incarnate working in us. To be utterly unnoticeable requires God’s Spirit in us making us absolutely humanly His.

「ああ、神様から素晴らしい呼びかけがありました!」と言えるようになりたいです。しかし、神の栄光に対して最も謙虚な仕事をするためには、全能の神が私たちの中よで働いている必要があります。私たちの業がまったく目立たないようにするには、私たちの中で働く神の霊によって、人間でありながら完全に神のものにされなければなりません。

 

The true test of a saint’s life is not successfulness but faithfulness on the human level of life. We tend to set up success in Christian work as our purpose, but our purpose should be to display the glory of God in human life, to live a life “hidden with Christ in God” in our everyday human conditions (Colossians 3:3). Our human relationships are the very conditions in which the ideal life of God should be exhibited. 

聖人の人生の真の試練は、成功ではなく、人生のレベルでの忠実さです。私たちはクリスチャンとして奉仕することを目標とする傾向がありますが、本当の目的は生活の中で神の栄光を表し、日常的な人間の状態で「神のキリストに隠された」生活を送ることです(コロサイ人への手紙3章3節) 。特に人間関係においては、まさに神の子としての理想的な生活を示すべきです。

 

WISDOM FROM OSWALD CHAMBERS

The fiery furnaces are there by God’s direct permission. It is misleading to imagine that we are developed in spite of our circumstances; we are developed because of them. It is mastery in circumstances that is needed, not mastery over them.

(From My Utmost for His Highest Updated Edition)

オズワルド・チェンバーズの知恵

燃えさかる炉は神が直接許可したことによってそこにあります。私たちが困難な状況にもかかわらず成長していると考えるのは誤りです。私たちは困難ゆえに成長しているのです。必要なのは困難な状況の中で自らに対して勝利することであり、困難に対して勝利することではありません。