今日もおつかれさまです!

のんびりと、でも着実に生きたい

Discovering Divine Design(2019 11/14)

 

Discovering Divine Design

 

As for me, being on the way, the Lord led me…  GENESIS 24:27

 

We should be so one with God that we don’t need to ask continually for guidance. Sanctification means that we are made the children of God. A child’s life is normally obedient, until he chooses disobedience. But as soon as he chooses to disobey, an inherent inner conflict is produced. On the spiritual level, inner conflict is the warning of the Spirit of God. When He warns us in this way, we must stop at once and be renewed in the spirit of our mind to discern God’s will (see Romans 12:2). If we are born again by the Spirit of God, our devotion to Him is hindered, or even stopped, by continually asking Him to guide us here and there. “…the Lord led me…” and on looking back we see the presence of an amazing design. If we are born of God we will see His guiding hand and give Him the credit.

 

We can all see God in exceptional things, but it requires the growth of spiritual discipline to see God in every detail. Never believe that the so-called random events of life are anything less than God’s appointed order. Be ready to discover His divine designs anywhere and everywhere.

 

Beware of being obsessed with consistency to your own convictions instead of being devoted to God. If you are a saint and say, “I will never do this or that,” in all probability this will be exactly what God will require of you. There was never a more inconsistent being on this earth than our Lord, but He was never inconsistent with His Father. The important consistency in a saint is not to a principle but to the divine life. It is the divine life that continually makes more and more discoveries about the divine mind. It is easier to be an excessive fanatic than it is to be consistently faithful, because God causes an amazing humbling of our religious conceit when we are faithful to Him. From My Utmost for His Highest Updated Edition

Bible in One Year: Lamentations 3-5; Hebrews 10:19-39

 

WISDOM FROM OSWALD CHAMBERS

Christianity is not consistency to conscience or to convictions; Christianity is being true to Jesus Christ.

from Biblical Ethics, 111 L

 

 

<Words and Phrases>

divine: 神の

sanctification: 聖化

anywhere and everywhere: どこもかしこも

beware: 気をつける、用心する(動詞で、命令形や不定詞形で用いる)

conviction: (強い)信念

never...more: 二度と(再び)...しない

                      ex)I have never felt more alone.(その時ほど孤独を感じたことはない)

fanatic: 熱狂者、狂信者

conceit: 自負心、自惚れ

conscience: 良心

renewed: 更新する

discern: はっきりと認める

 

☆ポイント☆

anywhereとeverywhereの意味の違いについて、とてもわかりやすい説明を見つけたので引用しておきます。

Ex.2 Put a plate anywhere you are told.「指定された場所ならどこでも良いのでお皿を置きなさい」

Ex.3 Put a plate everywhere you are told.「指示された場所全てにお皿を置きなさい」

この2例の意味を比べると分かると思いますが、Ex.2のanywhereはany one placeを表し、Ex.3のeverywhereはall the placesを表しています。つまりanywhereは「一つの場所」でeverywhereは「全ての場所」ということです。このことはanybodyとeverybodyについても言えることです。

受験英語教えて110番

https://docs.google.com/document/d/1YngR-8seLNdDi0KhGncwN0qROt-SneepNmPrWSMW1GE/edit

 

<日本語訳>

 

神様の計画を発見する

 

「主人アブラハムの神、主はたたえられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」

(創世記 第24章27節)

 

私たちは神にお導きを常に求めなくて済むように、神と一体になるべきです。聖化とは、私たちが神の子どもとされることを意味します。神の子(クリスチャン)の人生は、神に対する不従順を選ばない限り、通常は従順です。精神的なレベルでは、内なる葛藤は神の霊の警告です。神がこのようにして私たちに警告するときは、していることを直ちに止めて、神の意思をはっきりと認められるように、心を聖霊によって新たにしなければなりません(ローマ12:2を参照)。神の霊によって私たちが再び生まれたなら、私たちをあちこちに案内するように絶えず頼むことによって、私たちの神への献身が妨げられ、あるいは止められさえします。主はいつでも私たちを導いてくださり、振り返れば、神の驚くべき御計画を見ることができます。神のもとで生きるならば、その導きの手を見て信じるでしょう。

 

私たちは皆、驚くべき事柄を通して神を見ることはできますが、些細なことの中に神の御業(みわざ)を見出すためには、霊的(精神的)な鍛錬が必要です。人生の中で起こる、いわゆる「偶然の出来事」は全て、神様が命じたままに起こっていることに他ならないのです。どこもかしこも、神の御計画で満ちていることを発見してください。

 

神に献身するのではなく、あなた自身の信念に一貫して取りつかれていることに注意してください。もしあなたが聖人であり、「私はあれやこれを絶対にしない」と言うならば、それは神があなたに要求することとまったく同じです。私たちの主、イエス・キリストは地球上で最も理不尽な扱いを受けた存在でしたが、イエスは神の御心とは決して矛盾しませんでした。聖人の重要な一貫性は、原則ではなく神の命です。私たちが神に忠実であるとき、神は驚くほどあっけなく私たちの信仰的自惚れを打ち砕いてくださいます。だから、過度の狂信者であるよりも、一貫して神に忠実であることの方が難しいのです。

一年の聖書:嘆き3-5;ヘブライ10:19-39

 

オスワルドチャンバーズの知恵

キリスト教信仰とは良心や信念の一貫性を保つことではなく、イエス・キリストに忠実であることです。("Bibilical Ethics"111Lより)

 

<感想と補足>

 

スピリチュアルな内容が続くと、初心者の私は消化不良を起こしてしまいそうですが頑張っていきたいと思います笑

 

「神の霊によって私たちが再び生まれた」とは、洗礼を受けてクリスチャンになることを指しています。クリスチャンになることは、生まれ変わって新しい人(神の子)としての人生を歩み始めることなのです。

 

また「私たちの主、イエス・キリストは地球上で最も理不尽な扱いを受けた」というのは、人間の原罪を贖うためにイエス・キリストが十字架に架けられて死んだことを指しています。イエス・キリストは弱者を守り、ユダヤ教のあり方を正そうとした人でした。神の御心にかなう善い行いをしていたにも関わらず、弾圧により殺されたことを指して「理不尽な扱い」と言っているのだと思います。

 

「神様の御計画」は理解できる気がします。キリスト教に出会う前はただの偶然の出来事の集合に過ぎないと思っていた自分の人生の道のりも、神様が導いてこうなっているのだ、と考えることができると思います。

 

神様のお導きだ、と考えることは特に苦しい状況のときに役立ちます。辛いとき、一体何のために、何で私だけが、と嘆きがちですが、これも神様の御計画のうちだと思えば、苦しみにも意味があるはずだ、それを見つけよう、というポジティブな思考になるんですね。



辛いこともたくさんあるかと思いますが、めげずに頑張っていきましょう!

最後までお読みいただき、ありがとうございます( ⁎ᵕᴗᵕ⁎ )❤︎


購読されたい方はこちらから(無料です)

https://utmost.org/

 

↓おすすめのキリスト教入門書です。私がキリスト教に出会ったきっかけの本。 

キリスト教と私 (聖母文庫)
アルフォンス・デーケン
聖母の騎士社
売り上げランキング: 165,412