今日もおつかれさまです!

のんびりと、でも着実に生きたい

主イエスを求める

おはようございます(^^)

 

昨日、聖研祈祷会で教会に行ってきました。

私の通っているところでは、席の間隔を空けたり消毒やマスクといった感染防止対策をしながら、礼拝や集会を通常通りのスケジュールで行なっています。

 

昨日はヨハネによる福音書の6章22節〜40節を学びました。

エス様が5000人の飢えた人々に食事を与えた後、湖の上を歩くという不思議な場面と、その後の群衆とのやりとりです。

(これはなんとも信じがたい話ですね💦

教会の、信仰の長い方でも理解し難いと仰っていました笑)

 

エス様が不思議な奇跡を行われたので、群衆のうち何人かはさらなるパンを求めてついてきました。

 

これは、信仰という意味ではトンチンカンであり、イエス様が「そういうことじゃないんだよ」と諭しますが、群衆は理解しません。

 

そんなこんなで、イエス様は生きているうちには群衆から正しく理解されることがなく、結局十字架にかけられてしまうわけなので、何だかかわいそうですね...(^_^;)

 

昨日の御言葉で心に残ったのが、イエス様が群衆に投げかけた次の言葉です。

 

6:37 父がわたしにお与えになる方は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。

 

「父」というのは神様のことであり、「わたしにお与えになる方」とは神様がイエス様に出会わせた、信仰を求める人のことです。そのような、自分からやってきて信仰を求める人々ならどんな人でも受け入れるよ、という愛に満ちた御言葉でした。

 

これは逆に、イエス様のもとに来ない、自分で信仰を拒絶する人には何も与えることができないよ、という意味でもあります。

 

だから、たとえ愚かで間違った信仰でも、神様を信じてついていくことこそが大切です、というお話でした。

 

この話を聞いて、私は安心して勇気が出てきました。

自分の信仰が正しいか、聖書をきちんと理解できているか、そして信仰を生活の中で実践できているか、自信がありません。

だからこそ、毎週教会に行ったり聖書の勉強をしたりするんですけどね。

 

でも、イエス様は「正しくある必要はなくて、ただついて来る心があればいい」と言っています。

 

だから、私たちは安心して信じていればいい。

「間違っているかもしれないから」と言って信仰から離れてしまうことは、とてももったいないことです。

 

☆お祈り☆

天の神様。

昨日は聖研祈祷会で御言葉を学び、親交を深めることができました。

ありがとうございます。

今日も私を生かしてくださって、ありがとうございます。

コロナ感染の中、感染のリスクの中で働く方々をどうかお守りください。

今日私はたくさんの仕事がありますが、それらをこなすことができるよう、力を与えてください。

この祈り、主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げします。アーメン。