虚無感
こんにちは、今日も寒いですね…。
そろそろ湯たんぽの出番でしょうか。
足を温めるだけでだいぶ違うので、冬は欠かせません。
今日、Youtubeで「毒親」と検索したらたくさんの動画が出てきて、しかもコメント欄にはまたたくさんの「共感した」というコメントが上がって盛り上がっていました。
本当にたくさんの方が親のことで苦しんでいるのですね…
もはや、幸せそうに笑い合う家族や、堂々と親子ゲンカできる家や、子どもの可能性を引き出してくれる親なんて空想の世界の存在で、実際にはそんな家どこにもないんじゃないか?とさえ思えてきます。
さて、「毒親」の話題になると、その「毒親」から離れることが最終的なゴールになっているような印象を受けます。
確かに、血縁関係を利用して傷つけ続けてくる人間とは一刻も早く離れたほうがいいと私も思います。わたし自身、毒親と離れて、生まれて初めて自由を満喫し、生きることが楽しいと思えるようになりました。
でも、毒親から離れることができたとしても、その後は必ずしもハッピーエンドじゃないのにな、とも思ってしまうのです。
一時的に離れることができても、罪悪感や諸々のうまくいかなさから、結局支配関係に戻ってしまうこともあります。
私も家を出たばかりの頃は罪悪感でいっぱいだったのですが、周りの人たちが必死に止めてくれたおかげで、戻らずにすみました。
そうして、私は生まれて初めて本当の自由を知りました。
自分の好きなものを好きって言っていい自由、好きな時間に、好きな相手と出かけて良い自由、自分の着たい服を買える自由、嫌なことには嫌だと言ってもいい自由。突然平手打ちを食らうこともなく、顔がブサイクだと言われることもなく、役立たずと罵られることもなく、日記を書いても誰にも読まれない。毎日ご飯を食べて、お風呂に入ることができる。もう親の顔色を気にしてビクビクしなくていい。
まるで鳥籠から放たれた鳥のように、重苦しくのしかかる閉塞感から解放され、自由な毎日を謳歌していました。
けれどある時から、虚無的な感覚に苛まれるようになりました。
今は毎日が楽しいけれど、こんな順調な日々はいつまで続くだろうか。自分を大切にしようと思って頑張って来たけれど、なぜ自分を大切にしなければならないのだろうか。自分はそんなに大それた存在だろうか。誰かの役に立つ存在だろうか。
そんな、答えの出ないことばかり悶々と考えるようになりました。
親子関係が破綻している上、子どもも苦手なので結婚も出産も考えていません。
子孫を残すつもりのない私は、未来に繋がらない、不毛な存在にも思えました。
もともと、自分には生きている価値があり、世界は素晴らしいところであり、他人は尊重すべきものである、という感覚が私には欠けていました。
刹那的に日々を謳歌しながらも、どこか世捨て人のような、厭世的な感じがありました。
うちの親ほど酷い人間はそうそういないことがわかっても、それでも人の心はやっぱり信じられず、必ず一定の距離を置くようにしていました。
そんなどうでもいい世の中で、どうでもいい、子も産めないちっぽけな私が、毒親から逃げながらあくせくして生きる意味がどこにあるのか?とひとりで泣きながら、悶々としていました。
毒親と暮らしていた時は、人生の目的がありました。
それは確かに歪んだものではあったけれど、家の中では神に等しい存在である親に絶対服従して生活すること、少しでも希望に沿うこと、育ててもらっていることに感謝しながら奉仕することが、私にとってかけがえのない、生きる意味でした。
親は絶対に正しいと信じていたので、その親に服従している限り、自分も正しいと思えました。
暴力を振るわれて心も身体も傷ついたけれど、精神的にはある意味、楽でした。
生きていれば誰しも生きる意味や、将来のことなどで思い悩むことがあると思いますが、毒親の奴隷であった私には何の選択権もなく、親の決めたことである限り絶対に正しいため、悩む必要はありませんでした。それは楽なことでした。
毒親から離れて初めて、私は人生の問題に自分で立ち向かわなければならないことを知りました。それは、毒親育ちではない人にとっては単なるスタートラインにすぎないのですが。
だから、毒親からの自立は心と身体を守るために絶対にした方がいいけれど、その後も(他の人と全く同じように)様々な人生の問題が待ち受けていて、それに対して親の価値観ではなく、あなた自身の価値観で立ち向かわなければならない、それは時にとても辛いですよ、ということをお伝えできたらと思いました。
でも辛くても、大変でも、家を出たことは絶対に良かったと言えます。
だから安心してください。家から出たいと思うことができたあなた自身を、どうか誇りに思ってくださいね。
私もまだ逃げている途中ですが、一緒に頑張りましょう!!