今日もおつかれさまです!

のんびりと、でも着実に生きたい

愛について

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Have a nice day💐I hope you are having a wonderful day today#haveaniceday #flower#お疲れ様です#お疲れ様です❤️ #午後も頑張ろう#godblessyou

 

こんにちは(^^)

最近寒い日が続きますが、どうか暖かくして、風邪を引かないようにしてくださいね。

 

さて、今回は「愛」という大仰なテーマですが、愛ってなんでしょうか。

 

私は親に虐待されたことがあって、それは愛ゆえにだと思っていました。

 

今では愛を理由にして人を傷つけることは許されないと知っていますが、それでもやはり愛と暴力性は切り離せないという考えが根強くあります。

 

実家で長年のあいだ行われていた暴力は、全て私のためだと言い聞かされてきました。

 

「お前みたいな腐りきった人間は社会に出ても全く相手にされないで、のたれ死んでしまうから、私が矯正してやる」と言われていました。

 

なぜ「腐りきった人間」というレッテルを貼られてしまったのかはわかりませんが、絶対に服従すべき親に少しでも不服従や反抗の兆しを見せると、もう悪人として罰せられてしまいました。

 

叩く方も手が痛いのだし、心も辛いのだよ、とも言われました。そして私は「私も辛いけど、そんなにまでして私のことを教育してくれてありがとう」という気持ちでした。

 

私だって暴力で人格を矯正されるのではなく、もっとありのままを包み込むような愛が欲しいと思いますし、自分だって誰かを愛せるような人間になりたいです。

 

でも、暴力まみれの家庭で育った私が愛を追い求めたら、今度は自分が暴力的になって誰かを傷つけてしまうような気がして、怖いです。

 

こんなジレンマから、愛に関しては足踏み状態で、恋愛はそれなりにしていますが、表面的に楽しめればそれでよく、正直あまり深いレベルにはいきたくないなぁ、という感じでした。

 

それでも私はキリスト教に出会い、教会に行くようになって、神様の愛を知りました。それで、「愛」に対する見方も少しずつですが変わってきています。

 

愛とは独り占めするものではなく、外に向かって与え、発散するものだと思っています。内に向かって凝集していくものではなく、外部に向けて発散していくような力のあるもの。うまく言えませんが、そんな感じです。

 

うちの毒親は子どもたちを限りなく「愛して」いましたが、家の中の様子などを決して外の人に見せようとはしませんでした。やましかったからかもしれません。暴力行為の露呈を恐れる気持ちもあったでしょう。とにかく彼らの「愛」が家族以外の人間に向くことはなく、密着した家族同士にだけ、自分の全てを捧げて降り注ぐものでした。

 

真の意味で愛情深い教育をしている家庭は閉鎖的でなく、オープンで、たくさんの人々が関わっています。社会的には許されないけれど家庭内では当たり前になっている暴力行為がなく、見せてもやましくないからです。

 

他の例として、恋愛に関して言えば、彼女のことを限りなく愛していて、他の人たちは全く見えなくなってしまって、何でも許し合える二人だけの世界を作る、というのも凝集する愛の一つの形だと思います。

 

人を分け隔てる境界線が薄い、と言い換えることもできます。本当の愛は、たくさんの人に分け与えても決して減ることはありません。私は幸いにも、素敵な愛の実践をされている方を今までに何人も見ることができました。愛を内ではなく外に発散されていて、私もその恩恵にあずかることができました。

 

自分にできるかどうかはわからないけれど、いつの日か私も、本当の意味での愛の実践をすることができるようになりたいです。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました(^○^)

Have a nice day(^_-)-☆