人生の「答え」
この前、日曜日の礼拝の説教で、ある新聞の人生相談が取り上げられました。
若い女性の相談で「人生の答えが欲しい。高校まではなんでも答えがあったのに、大学に入った途端、自分で答えを考え出さなければいけないことばかりだ。こうすれば必ず幸せになれる、ということはないのか?」といった内容だったと思います。
牧師さんは「そんな方に是非、聖書を手にとって欲しい」と仰っていました。
誤解を避けるために言っておきますが、聖書を読んでも人生の「答え」なるものが見つかるわけではありません。前に進んで行くためのヒントや励ましは得られると思いますが。
私の考えでは、人生に「こうすれば必ず幸せになれる」というような「答え」はありません。
でも、たとえ最適解でなくても、いつも解はあるのだと思います。
その時その時の状況に応じて、「今はこれが正解」という臨時の「答え」が。
人間はいつも紆余曲折していて、どんどん変わっていくものです。
だから、答えが一つだけというのもおかしな話です。
変わり続ける臨時の「答え」を繋ぎ合わせた先に、その人なりの最終的な答えがあるのかもしれません。でも、まだ生きることを始めたばかりの人が、最初から最後の「答え」を真似しようとしたって、その意味すら理解できないのではないでしょうか。やはり、自分で時間をかけて到達しなければ意味がない。
数学の問題を解くのに似ていると思います。
長くて難しい問題の答えが「2」だと、たとえ解く前にわかったとしたって、その問題がわかったことにはなりません。プロセスがなければ、答えだけ見たってなんの意味もないのです。
しかし、その投書をした人は何故それを聞こうと思ったのでしょうか。
まさか、人生相談の欄に書けば人生の答えを教えてもらえると思った訳ではないでしょう。
もしかしたら、人生に迷っていて、誰かに話を聞いて欲しかっただけかもしれませんね。
おかげで教会のみんなで人生について考えることができたので、感謝すべきですね。
今日も、良い一日を過ごしてくださいね(^○^)