吉井奈々さんのYoutube〜見返りを期待せず働くということ〜
運の良い人と悪い人との違いはこれ!今日はコミュニケーション関係なしで話すわよ〜!
最近、吉井奈々さんのYoutubeが好きで見ています。
コミュニケーション術を中心に色々と勉強になるし、言葉の節々に愛がにじみ出てていて、こちらも幸せになってきます。
昨日見たこの番組が興味深かったのでシェアします。
これは、珍しくコミュニケーションについてではない話題で、「運」に関するものでした。
吉井さん曰く、運気を上げるには「見返りを求めずに他人に優しくする」ことが必要とのこと。
打算でなく、他人に先んじて奉仕する人にはどんどん人が集まって来て、良い運をもたらしてくれるというのです。
なるほどなぁ〜と思いました。
吉井さんはそれを「簡単なこと」と仰っていましたが、見返りを期待せず、純粋に他人のために何かするというのは本当に難しい事ではないでしょうか。
他人のために自分の時間やお金を使う以上、せめて喜んでいる反応が見たいとか、自分が困ったら助けて欲しいとか、色々と期待してしまって、それがすぐに叶わないともうその人のためには何もできない、こんなにしてやったのに、という風になってしまわないでしょうか。
よく「親の愛は無償の愛」と言われますが、本当にそうでしょうか。
少なくとも、私の親の愛は有償でした。
まぁ、私がそう思い込んでいるだけかもしれませんが、少なくとも子どもである私にはそう見えています。
期待通りに振る舞えない子どもは愛せない、条件付きの愛しか与えられない親は多いと思います。
これは、人間の弱さですね。
だからこそ、子どもをただ生きているだけで愛おしい存在として純粋に愛する親がいたら、それは本当に神聖だと思います。
そして、そんな素晴らしい親御さんもこの世には存在しています。
見返りを期待せず他人や自分の子どもに奉仕できる人とできない人は、いったい何が違うのでしょうか。
吉井さんは「運」を信じていました。
私はキリスト教徒なので「運」も全部神様が計画のうちに与えてくださるものだと信じていますが、運気も宗教も、人間にとって完全には理解し得ないスピリチュアルなものであることは共通しています。
理解できないからこそ謙虚になることができるし、神様を信じているからこそ「見返りを期待せず働く」ことが可能になるのだと思います。
何の見返りもなく、と言いますが、キリスト教においてはそのような奉仕はひたすら神様に喜んでもらうための行いであって、決して無目的ではないのです。
人間である以上、無目的にアクションを起こすことはできないと思います。
心の中では「見返りを期待していない」と思っていても、相手に気に入られたいとか、潜在的には必ず何らかの欲望があると思うからです。
何か人間以上の存在を信じなければ、目的のベクトルが相手に直接向いてしまって、その結果、打算的な行いしかできないのだと思います。
子どもを無条件に愛するということだって、ただ子どもが愛おしいということだけではできないと思うのです。
うちの親もそうですが、子どもへの気持ちだけだったら、密着した依存関係が出来上がるだけです。
宗教に限らず、自然への感謝とか、社会全体の財産として子どもを育てるという視点、郷土愛や先祖への愛など、何か普遍的で自分を超えたもの。
無償の愛を実現するには、そういったものが必要なのだと思います。